母との別れ

この二週間余り、何も書けなかった。第一に、忙しすぎたということもあるが、精神的に書けなかった。

3月31日に、この何年間、一度も電話をかけてきたことのない日本の弟からの電話。弟の声を聞いた途端、ぞくっと背中に寒気が走ったが、やはり、母が倒れたとのこと。心筋梗塞で病院に運ばれたという知らせ。状態がかなり悪いとも。

急の知らせで、頭が混乱しそうになりながらも、落ち着けと自分に言い聞かせ、すぐに日本行きのチケットを取った。飛行機に乗りながら、ひょっとして、間に合わないのかもと、手が時々震えながら、でも、きっと会えると信じて運を天に任せた。

到着後、その足で、病院へ。真夜中になってしまったけど、看護婦さんが会わせてくれた。母が気がついてくれて、思わず、ああ、間に合ってよかった、って言ってしまった。そのとき、母は特別の酸素マスクのため、母の声は聞こえなかったが、筆談で、「うれしいよ」と紙に書いてくれた。それから、毎日、看病のために、病院に通った。

日毎によくなり、次の日には、酸素マスクも話が出来る簡易のマスクに代わっていた。母も、私が来たので、本当に喜んでくれたのだが、よく聞いてみると、アメリカのような遠いところから、来てくれないのではないかとあきらめていたというので、ちょっとショックだった。私のほうは、知らせのないのはよい知らせと、元気でいてくれてると信じていたからで、元気じゃないと知れば、もちろん、すぐ飛んでいくに決まっているのに。。。そんなこと、言わなくても分かってていいでしょ、と言ったら、そうだね、と言ってくれた。

実のところ、この時期、アメリカの大学のほうでは仕事で一番忙しい時期に入っていた。その中をすべてのクラスを休講にして、まず、一週間の予定で来ていたが、日々よくなっていくものの、数日経つと調子が悪くなり、もう一週間、延期することになってしまった。そして今度は座って食べれるようになってきたので、これならいいかなと思ったら、再び、調子が悪くなり、再度、延期することになった。この間、クラスの皆には、大変な心配をかけていたが、皆本当に暖かく、支えてくれていた。私は、学生たちにメールファイルで送らせた宿題のドラフトなどをパソコンにダウンロードして、病院で看病中、母が寝ているときに、添削するという仕事も同時にしていた。母は、悪がって、こんなに長くいてくれていいのと聞いてくるけど、何言ってるのよ、調子がよくなっていくのを見届けなきゃ帰れないでしょと、言うと、喜んでくれた。

でも、私の仕事に関しても、もう限界になっていて、毎日、本当に苦しい思いでいっぱいだった。弟たちは仕事も大事だから、もう帰ってもいいよと言ってくれるのだが、私自身はどうしても後悔したくなかったし、それでも、大学の春学期はもう二週間余りで、終わってしまうんだから、休み続けるわけにも行かない。運よく、たまたま信頼する日本人の学生にお手伝いをお願いしたら、彼は快く引き受けてくれて、何とかクラスの二日分は乗り切った。

なんとか、まずよくなっていくのを見届けて、学期が終わったらまた来ようということを望んでいたのだが、月曜日の昼に、私の長男が会いに来たとき、母の状態は最高で、元気そうだったのに、それが最後となってしまった。その後、状態が急変して、4月16日に他界してしまったのだ。

昨日の告別式の後、ようやくこちらに戻ったが、私の今までの人生の中で、本当に辛いことの一つとなってしまった。まだ、やはり、信じられない。ちょっとまだ混乱していて、ちゃんと直視できないような。。。

でも、人間、誰にでも必ず訪れるものであるならば、それほど苦しむことなく静かに最期を迎えられ、そして何よりも、急病だったのに、ちゃんと会えて、2週間あまりずっと一緒にいられたということ、最期も私が横についている時だったということ。。。

悔いはないと、ぜひとも考えたい。。。