母の一周忌

先日のパイロットプログラムの準備クラスは滞りなく終えることができた。日本庭園の紹介と、茶道の練習。今回は実際の抹茶をたてて練習をした。全員が美味しそうに飲んでくれて大成功。時には、カフェインがあるから、飲まないとか、苦いから嫌いだとか、聞こえてくるものだけど、このグループは大丈夫のようだ。それに、当日浴衣を着る予定の人を聞いたら、なんと半分以上が手を上げたのにも驚いた。天気がいいといいけど。


さて、今日は、母の命日だった。生前、天気の良し悪しをよく気にしていた母だったが、今日は晴れて本当に美しい一日になり、母の面影や魂を心に感じて温かい気持ちになった。あれから、もうすでに一年が経ったなんて。。。ここ数日間は、ずっと去年の今頃のことを考えていた。母が好きだったサクラの花を見るにつけ気持ちが沈んだのも、一年前、病院の近くのサクラの花の写真をせっせと撮って入院の母に見せたりしたことが思い出され、あれは貴重な思い出になったけど、胸が詰まる思いがした。不思議に涙は出ないけど、母に一年も会ったり喋ったりしてないのが信じられなくて、当然、それはもう叶わないけど、それを思うと、一年経っても、かえってますます喪失感を感じていくような気がした。こういうことを考えすぎると、自分が落ち込んでしまいそうなので、今日は、意識的に空元気を出して、さらに積極的に過ごした。

来週出展するフラワーアレンジメントのアイデアを考えたり、私の以前の学生のアワードセレモニーに出席したり、次から次へとスケジュールをこなした。


ところで、クラスでは、ちょっとしたトラブルがあった。今日の二年生のクラスでは漢字の最後の試験があったので、少し実力テスト的な問題にしたのだが、思うようにできなかった学生が怒って(もちろん元々自分に怒ったわけなのだけど)教室を出てしまい、続いて他の学生も出て、20分も戻ってこなかったのだ。心配した他の学生も、また、私もうまく出来なかったから気持ち分かるわって、教室を出て、もう、本当に信じられない状態になってしまったのだ。

残された学生たちは、意味が分からなくて、なんで、テストができなくて外に出るのって言うし。とは言っても、私も、やっぱりテストのせいなのだろうと思った。というのは、アメリカの学生って、時々、本当に弱弱しいところがあると思うのだ。時々、こわれそうな精神力だと思うのだ。失敗して落ち込み、完璧な点数が取れないと落ち込み、恋愛がうまく行かなくて落ち込み、こういうことで、すべてを投げ出してしまう学生も、今まで何度となく見てきた。

一回のテストができないくらいで、何よって思うのは、私が気が強いからなのか。投げ出して、教室を出て、何十分もクラスにいなかったら、失うものはさらに大きくなるかもしれないって何故思わないのだろうか。完璧な成績が取れなかったら人生終わりだなんて思うことが、狭くて取るに足らないことだって何故思わないのだろうか。

そんなことを思っているうちに、その中の学生二人は戻ってきたが、はじめに出た学生は体調が悪くなったので帰ると言っているということだったので、私はその学生に話しに行った。彼女は私には、直接理由を何も言おうとしなかったが、私のほうから、テストのためにただ気分が悪くなったのなら、それは間違いだ、このテスト一つで何が変わると思う、何も変わらない、テストは結果が大切なのではなく、これによって学ぶプロセスが大切なんだ、私は二年生のプログラムの最後にどのくらいの漢字力がついているかを確かめたいと思っているが、成績は学期中の一人一人のパーフォーマンスで判断しているので、この漢字テスト一つを取ったら、まったく取るに足らないことなのだ、云々云々。。と話していくうちに、学生は徐々に明るい顔になった。

私は個人的な問題には立ち入らないけど、私が少なくともテストについて言いたいことはこのことだけで、それでも体調が悪ければ仕方ないけど、いつでも落ち着いたら教室に戻りなさい、と言って私は教室に戻ったのだが、その後まもなくこの学生も教室に戻ってきて、なんとか、普段のようにクラスを続けることができた。

その学生は、テストだけでなく、他の悩みや問題もあるとは言っていたが、そうよ、みんな誰でも悩みはあるのよ、私だって、今日は母の一周忌、覚えているでしょ、去年、私は日本に急に帰って大変だったこと、心の中は、みんなそれぞれ、いろいろ問題をかかえて、様々な思いがあるのよ、でも、私は前を見続けて生きて行くことこそ、母が喜ぶことだと思っていると言ったら、微笑んでうなづいてくれた。

と、このように話して、本当は私自身、気丈に振舞いながらも、いや、こうやって気丈に振舞うことによって、私自身が救われていると感じた。人という字が、支えあう所以。学生の問題を対処しながら、私自身が強くなれるのかも。