昨日のコンサート

昨日のコンサートでは、私の行っているダンススタジオのインストラクターたちが、特別出演で休憩時間にワルツとウインナーワルツの違いを見せる踊りをデモンストレーションした。椅子とグランドピアノが置かれた狭い中、よくもきれいに踊れるものだとさすが。観客の人たちも本当に喜んでいた。
このコンサートには、実は私は二つがらみの理由で行った。うちのダンススタジオのダンスの応援団としてと、もう一つは、ピアニスト。
このピアニストは、それまで3回の演奏会に行って、本当に素晴らしかったので、CDも買っていて、是非とももう一度というわけである。先週末には、たまたまCMTAの集まりで、彼に来てもらって、話し合いのレクチャーもやってもらっていた。昨日の演奏は、会場のピアノの楽器のレベルが完璧でないのに、すごい表現力とテクニックで全く違うシューマンコンチェルトの演奏を聴かせてくれた。どんなピアノであれ、その楽器を理解して、演奏を完璧にできる彼の実力は本当に目を見張るものだと思った。これも、本当にさすが!である。
私が初めて聴いた彼の演奏は、数年前のカンファランスでの演奏会で、「展覧会の絵」を素晴らしい音の色彩で表現していて感動したことは忘れられない。
ところで、先週の彼を囲んだ座談会では、私たちの大人の生徒さんたちも招待した。そういう状況下であるにもかかわらず、彼は彼自身を出して率直に質問に答えたものだから、何人かの生徒さんたちが、ショックを受けたようで、これが、予想以上の反響と疑問となり、ちょっと問題になった。
いろいろ彼は話したが、音楽教師以外の人たちが集まる会で、話す内容ではなかったと思う。それとも、逆に敢えて暗にそれを示唆したのだろうか。彼の意識の中には、本音というのがあって、それをそういう機会に暗に示したいほど、自分自身に自信があるのかもしれない。
自分の音楽大学の学生の半分は音楽をやめるべきだという意見を機に、大人のアマチュアピアノ生徒が大人の初心者はどうするべきかの質問に、ピアノはバレエと同じように、子供の時じゃなきゃマスターできない、高校生の初心者にですら、普段6歳までに習得することをそんなに遅く学ぶのは不可能だ、音楽では耳が一番大切で、6歳までにソルフェージュをやっても耳ができてなければ、音楽は向いてないからどんな楽器もやるべきではない、彼の国のロシアの音楽教育や状況など話しながら、子供の時にそういうレベルでなきゃ学校に入れない、生徒がいろいろ説明しても必要な音が出せなきゃ、何を言おうと単なる口実でしかない、どんなに才能があっても、練習量が見えなくちゃできることにはならない、等等、正に正論で、日本にいた時のある先生たちはそんな風で、一週間で暗譜した曲じゃなきゃ、レッスンすらしてもらえなかったこともあった。そんなキチガイ地味たレッスンでも、それについていくと、なんと、これが一週間で必死で練習して暗譜ができるようになるものなのである。つまり、暗譜するくらいに曲と音が分かっていて、ようやくそのレッスンが始められるという本当にタフなレッスンを受けてこなしていたこともあった。
アメリカでは、生まれながらの才能に頼る面が強いし、そうでなければ、完璧楽しみに根ざしたレッスンが大切だと考えられているから、だからこそ、大人でも初心者が結構いるわけで、そういう人たちをがっかりさせるようなトークにたくさんの人たちが戸惑ったのもやむを得ない。確かにちゃんと質の高いものを目指す音楽家志望には、それぐらいの厳しい取り組み方は避けられないけど、大人でも子供でも、音楽の人生に何を求めるのかを考えるとそのレベルだけにいなきゃいけないわけじゃない。
どう自分の人生に音楽を取り入れていくのか、それが一人一人の課題であっていいのだと思う。簡単なフレーズが片手で弾けただけでも、この人にとって、大きな喜びと自信と命が与えられれば、それで完璧だと思うことだってある。92歳の認知症の女性でも昔弾いたピアノの曲が意識のどこかに生きていて、一緒に手伝って弾いて、彼女はそれを思い起こしたら急に指が動いて、「メリーさんの羊」を楽しく弾いて聴かせてくれた。それがどんなに嬉しそうだったか忘れられない。