ニーチェのニヒリズム

以前教えた学生と久しぶりに話した。彼は、エール大学でちょうど二年生を終えたところ。それなのに、もう日本語と数学では4年生を終えてしまった優秀な学生である。彼が高校のとき、私と日本語を始め、大学入学時の試験では、すでに一年生をスキップし、その一年後、日本に8週間の留学を経たら、また試験を受けて、3年生をスキップし、先学期、もう4年生の日本語を終えてしまったのだ。村上春樹の作品とか新聞記事なんかもいろいろ読んだらしい。今日の会話の半分も日本語だけ。かなり上手くなっていた。彼の専門の哲学の話になったら、ちょっときつそうだったので、英語に切り替えたが、それ以外は完璧だった。

毎回、彼と話すと、とても面白いし、今までも、よく哲学の話になったが、今日は、ニーチェニヒリズムについて話し合った。私自身、学生時代、哲学にはとても興味があったし、中学生時代、よく父(父も哲学が好きだった)と話し合ったりしたこともあり、そういう話題には、つい夢中になる傾向があるのだけど、今日の彼との話し合いも面白かった。

彼はニーチェに一番、引かれるということだが、その理由の一つに、次から次へと続く問いかけがあるからだと言った。

神がいないならば、人間の存在に意味があるのか、この世にある何事にも意味があるのか、という問いかけに対し、神がいないならば、存在の意味は何もないとするキリスト教主義を否定して、それでも、なお、存在の意味があるのかどうか? 西洋のその時代に、つまり、それほどキリスト教の影響が強いキリスト教主義の時代に、こういう質問を問いかけたニーチェ。今でこそ、そしてまたは、キリスト教主義の社会じゃないところでこそ、まだ受け入れられ得る問いかけであろうが、その頃の一般社会では、きっと想像できなかったと思う。

ニーチェは、神を否定して、改めて、人間は何のために生きるか、を求め、人生そのものには、何の意味もなく、ただ永遠に同じようにくり返されるだけだという結論に至ったが、(ふと、仏教の輪廻を思い出す結論。)では、そういう「無意味な」人生というものを、どうとらえようか、肯定するか、それとも、すべて否定して、投げ出すか。ニーチェは、肯定の道を選んだのだけど、人生を否定したギリギリの極限状態の肯定にこそ、救いがあると信じた。でも、確か、ニーチェは、最後は発狂したんだと思う。そりゃ、突き詰めて考えたら、発狂するのかも。

実は、この頃、私自身、母の死を経て、もろもろ付随する事柄で、つい、思いにふけってしまうことが多いが、私にとっての母の存在を考えてみたり、兄弟との関係を考えてみたり、また家族とか、親戚とか。。事実を直視しようとする時、人間って、絶えず、事実じゃないファンタジーを求め、ファンタジーに憧れ、虚像に向かって生きているのではないかと、ふと、思うこともある。人間として当然だと思う事柄が、当然ではない、実は、本当に得難いものであったり、無意味でさえあるかもしれないという考えが、ふと、浮かんできていた。だから、なんとなく、今の私には、ニーチェの話に、なぜかしら共感を覚えてしまった。

存在の意味があると思っていたものが実は意味がなかったり、逆に、存在の意味がないと思っていたものに価値があったり、とか。