静寂

昨日の、イベント多き長い一日も無事終わり、ほっとしたのだが、昨晩、ちょっと暴飲暴食してしまって、胃腸をこわしてしまい、今日は身も心もちょっと空虚な腑抜け状態になってしまった。また、日曜なのに、教会の仕事に行かなくてもいいのは、やっぱりさびしかった。

昨日教会では、最後のセレモニーがあったのだが、Celebration of The Life Of The Gordonsville Christian Churchとは言え、始終すすり泣きが聞こえた。私も普段の礼拝ではないから、宗教的な曲目でなくてもいいと言われていたので、張り切って前奏で、モーツァルトの作品を10分間と、感動的なエルガーの作品を5分間弾き、そこからすでに会衆の間ですすり泣きが始まった。最後の後奏もショパンを演奏したが、終わったら、出席者から、とても喜んでもらえて、本当にうれしかった。やっぱりピアニストとしては演奏を楽しんでもらえるのが一番だから、そういう意味で、大きな演奏会じゃなくても、いや、むしろ、大きな演奏会じゃなくて、日常的なこういう機会が私には一番うれしいと思った。

この教会に因んだ牧師たちが招待されていたが、40名ぐらいの小さな集まりだった。でも、さすが、牧師さんたち、賛美歌は大きな声で、明るく歌うし、声部も分かれて歌ってよく響き、賛美歌の合唱は本当に素晴らしいものだった。

いろいろな牧師さんたちが一言ずつメッセージを話したが、その中で、ある牧師さんは、

私たちがここに集った年月(1853年から2009年)の156年間にあったことすべて、何も変わっていないのです。私たちはいつも一緒に共にいるのです。何も変わるものはないのです。

と話したとき、その話し振りは感動的だったのだが、私は、面白い捉え方だと思った。実際は、何事も変化し、いつどの瞬間を考えても、同じ事は起こらないのが事実なのに、何も変化なく、いつも私たちは永遠に共にいるという考え方は、やっぱりキリスト教的だし、神の前に永遠の命に生きるということなのだろう。

仏教的には、輪廻だから、物事は絶えず変化するというところから始まり、事実変化し続けるというところで、永遠なのだと考える。

真実は一つなのだけど、捉え方なのだ。やっぱり昨日のスピーチでは、事実を直視したくないというものがあるように思えた。それならば、何故、教会がなくなってしまって悲しいと言って泣くのか。本当は悲しいから、変化はなくいつも同じなのだよと言葉だけでも慰めているのだと思える。もちろん、そんな言葉で、気持ちが救われるのなら、それもいいのだろうけれど。

ところで、このセレモニーのあと、すぐにレセプションだったのだが、私は、他の仕事ですぐ出なくちゃいけなかった。教会員の方たちから手作りのクロスステッチの素敵なカードと菊の花鉢をいただいた。本当に、いつも暖かい人たちで、そういう意味で私も感傷的になったし、みんなに会えなくなるのも寂しかった。


さて、その後、CMTAの9月例会。
私は執行委員なので、新メンバー紹介とか、いろいろな発表スピーチがあって、この会にも責任があり、昨日は身体が二つあったらと思ってたけど、無事、責任を果たすことができた。

ところで、この例会はレセプションも兼ねており、まず、ここで、白ワインを飲み、その後で、友人とレストランに行って、食事で赤ワイン、食後、コーヒー代わりにコニャックでデザートにしたのが祟った。はじめよかったのだが、夜中に脂汗が出て気分が悪くなり、胃腸がおかしくなってしまった。ちょっと調子に乗りすぎたなと反省。朝になったら、よくなったけど、今日は瞑想気分で一日中過ごした。静かに、閑かに。。。