教会の牧師が代わる

うちの教会の牧師が代わるので、昨日が今までの牧師の最後の礼拝だった。
さて、ここ三週間ほど、それに関する話題ばかり彼女(牧師)は説教でも話してた。一言でいうと、ここにいた数年間、素晴らしい数年だったが、次の牧師がきたら、今度はその牧師がみなさんの牧師なのだから、この人を完全に信頼して、暖かく迎え、何か悩みなどあっても、絶対に自分には連絡を取らないように、新しい牧師に話さなくちゃいけない、云々である。
確かにその意図が分からないわけではない。神を中心におけば、牧師は単に神の僕、個人的な友情とかの関係ではないから、誰でもいいのだよということなのだと思うけど、日頃言っていること、例えば、[友情]とか、そういう関係は、一体何だったんだろう、あれは、ただの言葉?甘ったるい言葉で、翻弄されていただけ、と取ることだってできるのではないか。人間は機械ではないのだから、個人的な感情を抱いたり、友情をもったり、逆に嫌ったりすることは、ごく自然のことなのに、このように今強調されると、優しく、甘く話されてきた言葉が空虚に思えるような気がした。
この牧師は、人間的にいい人だと思っていたし、今でもそう思っているけれど、私は、この教会の会員ではないから、もっと冷めていて、自由に感じている。だから、これは、教会で話される言葉には嘘があるとはっきりと感じた一例なのだ。
所詮、建前のように感じてしまう。本当の心で付き合うことは難しい。だから、時々私は白けてしまうことがあるのだと思った。今でも覚えているけれど、母が亡くなって日本に帰ってこちらに戻ってきた時、みんなが優しい言葉をかけてくれたけど、あまり、心に響いてはこなかったことを覚えている。私もそういう意味ではあまり素直じゃないことはわかっているけど、やっぱり、何かあるのだと思う。一人一人の人間は決して悪いわけではないけど、言葉という手段をつかうと、いとも簡単に表面的に優しい雰囲気が漂うのだ。でも、中味はすかすか。。そういう感じ。

それでも、優しい言葉すらないよりはいいのかもしれないとは確かに思うけど。でも、関係を友情だと勘違いしていたりするのは、嫌だよ、私は。引っ越したら、もう友達として振舞わないでほしい、というなら、それは、本当の友情じゃないのだから。単なるビジネスに他ならないわけなのだ。


ところで、教会員の中には、本当に頭が下がるような、慈悲深い人もいて、時々、すごいなと感動することもある。だから、これは、教会のシステムではなく、個人の問題なのだと思うけど、そういう貴重で特別な人たちもいるから、決して人間を否定しているわけでもないし、個人レベルでは、いい経験をさせてもらっていると思う。